昭和四十七年三月五日 朝の御理解


X御理解第七十六節 「人間は人を助けることが出来るのは有り難いことではないか。牛馬はわが子が水に落ちても助けることが出来ない、人間が見ると助けてやる。人間は病気、災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」


 助ける。助けると言うても、助け方というものがあると思う。却って助けたことが、その人を不幸にしてしまうという助け方もある。ですから、本当によくよくわからせてもらわないと、助けたことが結果に於いては、却って不幸なことになる。
 先月からの軽井沢事件、あの学生問題なんかの人達の主義主張というのは、決して我情我欲のためではなかろうと思うですね。自分が立身出世をしたいとか、自分が先に幸せになろうということではなかろうと思うのです。やはり、社会をよりよい社会にしよう、皆の人達をより幸せにして行こう。そのためには根本的なところから、言うならば、やり直さなければ駄目といったものではないでしょうか。私共は本当のことはよくわかりませんけれども、ですから、その同じ助けると言っても、そういうところから、無い命と、ある意味に於いては、的にして、人の世のために、人のために、難儀な氏子のためにというわけなのです。
 現在の例えば、政治等では、人間が幸せになるとは思われない。それから今の生き方を、道を叩き壊してしまう、崩してしまう。そのためには、例えば人を殺してでもね、自分達の意志を貫き通させる。貫き通そうと。その沢山の人達のために少人数の人が殺されるといったような、ということは仕方がないのだ。問題はないのだ。という意気込みなのですね。
 だから、私はそれを聞いてからすぐそう思うた。これは、私達は、私共のような者は一番に殺されるんだなあということを、いう事と思うのです。なぜかというて、そういう考え方が全然反対なのですから。どんなに素晴らしい、例えば、財産なり、財産を持っている者が、一様に一変してしまう。金持ちもなからねば、分限者もない。それが先はもう、頭の良いとか、勝ったのだと。とにかく、試験から試験と、試験に合格していく者がどんどん成功していく。頭の悪い者は下の方でうろうろしとかにゃならんというような思想か
ら出来たにしましても。果たして、頭の良い者は使っても、頭の悪い者は助からないことになる。一様に分けて貰った財産でも、またすぐ不問のことになってしまう。仲々算盤通り、理屈通りに行かない。
 この頃、田主丸の小野先生のお母さんが、あちらの方、招待されて、招かれて折り紙を作って、あちらの、ヨーロッパの方からソ連の方の、方から廻って来られまして。言葉は分からないけれども、折り紙折って話して来たというのである。それで、一番良い政治をなされておるという、ソ連に行って一番惨めに感じたのがソ連だったと言うておられます。表面には如何にもよかろうごとあっても、ちょっと田舎に行ったら、それはとても惨めな生活だというのです。赤軍派というような、仲々ちょっと、学理学問の上に於いて、どういう答えが出来て、それは命を懸けるという程のものですから素晴らしい。そのことの意気というか、そのことは本当に尊敬致します。
 けれども、決して、それで人間の幸せなんていうことはありえないのです。だから同じ助けようというても、そういう助け方、なら言っておるこれはね、頭の良い者が段々のして行くのでなくて、例えば頭の悪い奴が、社長というて頭の悪いのがふんぞり返っているのが、シャクにさわるというわけであります。言うなら、そういうことが、頭の良いのが社長になるべきだと。なら、今度頭の悪いのはどうなるかと。
 そこで私が、教祖金光大神がそう言って下さる。また、それを私が、それを実感して皆様に話しておる、和賀心時代を創るということなのです。もうこれはどんなに頭が良かろうが、悪かろうがね、有難くなるということに於いては同じなのです。世界中の氏子におかげがやってあるとか、神は平等であるとかと言うことは、どういうことかと言うとね。人間は誰でも有難うならせて頂こうという精進をしたら、誰でも有難くなれるのだというのが平等なのである。私共のように、頭の悪いのでも有難いことになるということに於いては、本当にこのまま行ったら日本一になるじゃろうと。日本一有難い私にならしてもらおうと、これはもう皆さんが一人一人その願いを以て、決して悪いことじゃない。持たなきゃならんのです。
 私は一つ総理大臣になろうとか、私は大統領になろうとかねということはとても普通の凡人が考えるようなことを、考えもしませんでしょうが、出来ることがないでしょうが。試験から試験、そして頭の良い者がどんどん引き上げられて、頭の悪い者はいよいよ本当に世の中の掃き溜めに掃き寄せられるように。どういうことになるしょうか、もうお前達は頭が悪いから百姓をせろとか、百姓が頭が悪いということではありませんが。私はソ連の話を、小野先生から話を聞かせてもらって、そんな感じがしたのです。
 頭が良いのはどんどん中央に引き上げられるのです。まあ、そういった思想といったようなものは、私共の語る筋合いのものではなし、また、しませんのですけど。ただ、私がここで言いたいことはです、神様が平等に下さっておる、誰しもが信心さしてもらい、真の道を辿らせてもらおうという気になれば、誰しもが有難くなれるのだと。その有難いという心に人間の幸せが伴って来るのだ。おかげは和賀心にあるのだ。だから本当に、和賀
心におかげを頂いて、幸せを頂いて行こうというのが、教祖金光大神の、いわば人が助かるということなんです。
 お金を持っておる人がお金のない人にお金を恵んでやる。その時は助かりますが、おかげでこの御恩は死んでも忘れられんと言う。ところがそのために不幸になるという例がどのくらいあるか知れません。乞食が貰いに来る。物を恵む、与える、乞食は喜ぶ。そしていよいよ乞食根性というものから脱却出来ない。一生その人を乞食にしてしまうような助け方はいけないでしょう。
 だから人を助けるというてもです、いろんな助け方があって、そして結果に於いては助けることにならないということ。流血革命、血を流さなければ革命が出来ない、幸せになれないといったようなもので、ただ有難い、勿体ないで革命をして行こうという。私は和賀心時代を創るというのはそういうことだと思う。私を見て下さい、金光様の信心を頂いて、本当に和賀心と。自分の心の上に、和らぎ喜ぶ心をいよいよ頂かせて頂く姿勢をとりましたら、もうこげなおかげを頂きますと。もうこれが段々に本当なものになって行くのが楽しみです。ここに人間の幸せがあるのですと、今だ信心を知らない、和賀心によって人間が幸せになれるんだということを知らない。ただ、政治がお粗末だから、人間が幸せになれないと言ってる人達に、実際に私共がそれを示して行けれるだけの信心。
 昨日は神愛会でしたから、先生方、丁度昼から四時の御祈念頃まで、いろいろお話をさせて頂いた。本当に言うなら、「人の難儀を取次ぎ助ける御用に専念させて頂かねばならないあなた方。そのためにはね、私の言っておる、私の助かり方を自分の身に一応体得せねばいけません。それを自分の身の上に頂かなければ駄目。普通なら、自分自身が、そういう助かる道を本当に体得しなければ駄目です」と言うて話したことです。
 自分自身が本当に助かる。世の中のあらゆる難儀を見るにつけ、不幸な人達を見るにつけて、これは本気でお道の信心をさして頂く人が助からなければいけないなあという自覚が出来なければいけません。とても私が助かればよい、まあ、試験のことでも何でも、もう自分の息子が通りさえすればよか。そのためには、人は蹴散らかしたっちゃ、落としたっちゃよか。自分の息子がとにかく通りさえすればよか。
 今日の新聞に出てましたね、そんなこと。大学の受験にお父さん、お母さんがついて行って、そしてまあ、とにかく、まあとにかく通りさえすればよか、通りさえるればよかと手段を選ばない。果たしてそういうことで人間が幸せになれるだろうか。成程受験するからには受かるのがよい。だから、そこには神様の御心のままに、御神意のままにおかげを受けて行こうという行き方にならねばなりません。そういう心が、和賀心。自分の息子は出来んでようございますから、どうぞよその息子が上がりますようにといったようなものじゃない。受験するからには出来ねばいけません。けれども、やはりお任せして、御神意のまにまに、ということにならなければ、本当に助かるということにつながらない。
 受験に無理して、人を蹴散らかして、それこそ金やら物にものいわせて、なら入ったとしましょうか。それから、その人の不幸せになるといった例が沢山あります。出来ないこ
とが、まあ、とにかく神様にお願いしてから、お縋りしてからのことでありますから。もう、右とか左とか、あなたに任せる。それでもやはり、痛いなら痛い、痒いなら痒い、出来たがよいなら、出来たがよい、と思いますから。そこのところの時点で、有り難いと思わしてもらう。
 昨日、ある方の御取次を頂きました。ある方というのが、日田の綾部さんがお出になってからのお届けでした。あちらで、店員さん方が沢山おられますが、皆自家用車で通って来られるというのが、まあ、ある意味での自慢のようなお話でしてね。店員達は皆自家用車で通って来ますと、しかも十五年、二十年と長い勤めをした者ばかりです。いかに店の内容が良いか、店の店員に対する手当なり、手当が良いか、また、可愛いがんなさるかということがわかるような感じだった。
 これは、綾部さんが参って見える時代がそうであった。あるちょっとした事柄がありまして、経理に詳しい人を入れるがよかろうというので、入れられました。御神意を頂いて。そして帳簿を見て、もうわからんところばかりで、ただ儲かった、儲かったと言うとるばかりで。いやそうでなくて、何がどうなっておるかわからんと。店員一人一人に聞いても、逃げ隠れしてからそれをはっきりしない。はっきり出来るはずがない、もう長年のことだから。どこがどうなっておるかわからん、といったようなことで。そして、それを究明すると出てくる。だから、もう本当にどうなっとるかわからんと。全ては、これは、言えば私の不行き届きで、もう前のことは言いますまいと。新たなこととして、これから行こうということであった。
 ところが、そういう内に、居たたまらんのがそういう店員です。一人辞め、二人辞めして行くのです。そのことが二、三人辞めますと、昨日そのことで参ってまいりますと、本当に去って行く者を追うとは思わん。それでも、何とはなしに永年手塩にかけて来た店員達が離れて行きますことは、本当に寂しいことですと言うことでした。本当に人情からいうと寂しいこと。あれほどこの人達のために、本当に惜しいもののないようにしてあげたり、何かで、もう良い店員、良い店員。そりゃおかしいことじゃねえ。酒屋の店員が自家用車で通って来るなんて。それが、ある意味合いでは、綾部さんの自慢のような感じでしたよ。けれども、本当にそうであろうかと思われます。だから、それはちょっと違うところもありますけど。
 私が終戦で引き上げて帰って来まして、酒屋を、酒の配給をしておりました。丁度実績では、私の方が実績としては、私の方が中心としてやっておりましたから、椛目というところは、大変に地の理が悪いところですね。矢萩から、島から椛目まで来にゃならん。三軒酒屋さんがあるのに、一軒だけ亡くならなければいけん。
 そこでもう私は忘れはしませんが、内田さんのご主人が近所にタオルやら何やら持ってね、どうぞお願いしますと。その時は投票でしたからね、行きよんなさるからね。「あなたも行きなさい」と言いなさいました。けど、帰って来てから信仰一途になっておりましたからね、そげんまでして酒屋をさせて頂くなら、酒屋を、そして、もういけんなら、も
ういけん。ですから、「ご親切は有り難いけれども、私の方はそげなことはしません」と言うて、一心に神様に、丁度、私共十何人の生活が出来るのですよね、酒屋の、まあ、やってさえ行きよればね。ですから、言うならばそれはもう命なのです。酒の配給。だから、どうかしてでも、なら求めたいという気持ちですけど。例えば、タオルの一本でも配ってから頼みに行こうとは、更々思いませんでした。ただ神様に一心にお縋りした。
 まあ、開けた結果、私の方の失格ということになった。お届けに行ったら先生が、「そりゃどうするの」とおっしゃいました。「これからどうしてやって行くか」とおっしゃいました。けども、その時の私の気持ちは、「親先生、これは酒屋なんてんよりもっとよか商売がある証拠ですから、神様に御礼申し上げて下さい」と、これは私の実感でした。
 あのね、皆さん、せっかく信心の稽古をさせて頂いておるならね、その時点でね、おかげと頂けれる信心を頂いておかねばね、力にも徳にもならんです。その時にしもうとる。あげんお願いしとるとにと思えたり。それが段々おかげになって行くとなら、それはおかげにはなっても、本当にあの時はしもうたと思いよったばってん、返っておかげじゃったと。おかげには絶対なります。お願いして行けば。けれども、それは力なのです。
 私は昨日も、神愛会でそのことを話したことでした。私共信心させて頂く者が、それはやはり、私の方の米櫃ですからね。酒屋の配給というのと同じですから、どうでもとそれまでは一生懸命に願った。けれども、いろんな意味合いでの、いろんな手段を講じてまで酒屋を、酒屋をしようと思うた。思わなかった。だから、神様には一心にお願いした。十何人の者、仕事はなし、ただ帰ったばかりですから。という時ですから。それで、永年の酒の配給が出来なくなった時に、私は本当に寂しいとは思いませんでした。これだけ神様にお願いしてからのことでしたから、よい仕事へと変えて下さるのだなと、これが実感でした。どうでしょう、今頃私が、その酒屋をしておったら。また、立派な店舗なら店舗を構えて、酒の卸、小売りをやっておったかも知れません。酒屋の大将だった。とても今のような道を歩んではおらん。それは素晴らしいことなのですよ、そこの辺の岐路というものは。
 だから問題はね、その時点をね、私はだから、綾部さんがそのことをお届けされた時に、「そげなことはいかんばの」と、「それはあなたの人情から言えば、そうであろうかと思う。だから、本当に寂しかろうね」と私は言うて、だからおかげには絶対になる。けれども、それが日頃信心の稽古をさせて頂いておる信心を、その時初めて申言わせると、それが力になる。徳になる。もう神様が本当に、過去の店員達は過去の私についてきた者ばかり。信心させて頂いて少しは高められて来た。だから、これからは少しは高められて来た者と取り替えて下さるのは、自分の働きと思うのは寂しい段じゃない、有難いと思わなければいけない。それなら必ず徳になる、力になる。即有難いと。
 一心にお縋りしていますと、どうぞ酒屋が続けられますようにと頼んでおりますよ、そしていよいよ出来なかった時にはと言うて、酒屋になればよいと言うて、手段を選ばぬというような卑劣なことはやらない。神様一心に願ってましたからね。「そういうところを
、例えば先生方、あなた達はわからせて頂いて、ちょいとしたことでもう願い方の変わるようなことではいかんよと言うたことでした。それを即おかげと頂かせて頂いて、これだけは頂けるようになったということと頂けねば、いわゆるそれによってあなた方が助かることになる」と話しました。そこから行かなければ助かるはずがない、と。成程金光大神の御取次によって助かるのですから。
 けれども、そういう例えば、助かってないような先生が取次いだり、助かってないということが金光大神の働きを邪魔するのです。働きは同じ、その証拠に、なら偉い先生のところにはどんどん人が助かり、でないところの先生のところでは、人が助からんでしょうが。金光大神の御取次から、どこでも一様におかげ頂かんならん。けれども、その先生の助かっておられる程度がです、おかげに現れて来るのであり、助かっとらん程度が、金光大神の御取次の働きというものが、そこを通って出て行きよるけれども、見逃してしまうような先生であってはいけないよと言うて話したことでした。その時にはあなた方は助からにゃ。
 だからこれは、神愛会だけのことではありません。皆さんの場合であってもそうです。現在五十名なら、五十名、百名なら百名の人がです、合楽のそういう信心を頂き止めた人。その時点を、どっこいと有難く頂いて行ける人を、信心を頂いた人達が出来たら、それから先はもう、あれよあれよというような、ここでは人が助かるでしょうね。私の助かってもらいたいというのは、そういう助かり方なのです。ただおさすりどもして助けるとか、ただ私が荒修行してから人を助けるということでなくて、私自身が和賀心になり、私自身が喜びの有難い、それこそ日本一を目指して頂いて行けれるというところから、私のようにあなた方も和賀心になることに勤めなさい。有難くなる稽古をしなさいと言うて、人が助かって行くことを願っておるのですからね私は。
 そこで、ならば五十人、五十人の人がそういう親先生のおっしゃることが、そういうおかげを受けられますという、私だけの手本ではない。皆さんがそういう商品見本と申しましょうかね。五十が二百五十になり、二百五十が千にもなって行くわけです。私が、金光大神が願われるのは、そういう願い。自分の助かって行く、その助かるという心に一切のものが伴って来るという助かり。そういう助かり方をさせてもらって、そういう助かりをする人達を導いて行こうというのですから、決して流血革命というような恐いことを言わなくてよいのです。
 なら、和賀心になってしまわねば助からんというのではなくて、そういう本気に助からせてもらうという。本気で信心させてもらって、その和賀心を求めて行こうという気になればもう、おかげが付いて来るのですからね、金光大神の信心は。和賀心時代を自分の手元から、足元から作って行こうという、言うなら運動なのです、合楽では。ですから、その人が自分の心の中にどういう中にあっても、即有難いと、綾部さんの話をしましたですね。
 その時点で有難い、これはよりおかげの頂けれる神様の働きだと、頂けるようになった
時に、その人が助かったということが言えるでしょう。そういう助かりなら、あげな助かり方をしてから難儀をしたということは絶対ないです。財産を一様にしてやってからは、一時は喜びよったけれども。頭のよかとだけはどんどん昇ったけれども、頭の悪いとは、また、木から屑になってしまったといったような助かり方では、本当の助かりにはならない。神様の願いではない、そういう助かり方では。
 本当に、例えば赤軍派の人でもです、本気でね、合楽の信心を説いて、説き聞かせたら、あのように頭の良い人達であり、命がけの人達ですから、本当にわかるものになるものであると思う。先ず皆さんが助かんなされにゃいけん。だから、これが本当にそげなことになって参りますとね。そういうことと反対のことを言っている私共が一番に血祭りに上げられるのです。反対の思想ですからね、恐ろしいことです。ですから、これはもう空想とか、理想じゃなくて、事実このように助かっておるという事実をね、合楽では現して行きたいと思うのです。
 人が助けられることは有難いということは、信心しよるという助け方がありますけど、助けたために却って難儀なことになるといったことにはならない。そのために、私共自身が有難い私共にならせて頂いて、その人もまた有難い方向を目指されるような助け方になって来る時に、もうどういうところに飛ばされても、投げられても、そこからおかげの頂けるという道ですからね。そこから力を頂いて行けれる、徳を受けて行けれる道ですから、合楽の信心とは。また、私が合楽で言っているのは、それなのですから、同じ金光様なのです。
 撫でさすりしながら何千人の人が助かりがあるという所もありますよ。だから、そういう所であってもね、その時の一時的の助かりであって、本当の助かりにならんと。だから、そういう信者ならいらんと私は言う。本当に和賀心を求めて来る信者でないからね、は、その人の本当の助かりにはならんと。そういう助け方が出来るというところに、「有難いと心得て信心せよ」とこう仰っておられます。私自身が助かって行けれる、有難い、それに人間の幸せの条件である一切のものが伴うて来る程しのおかげ。無限大に限りなく頂いて行けるおかげの世界にです、住まわせて頂く。そういう助かりを求める。そういう助かりを以て、人を助けて行けれることは、成程有難いことではないかとおっしゃる。「人の難儀を助けるのを有難いと心得て信心せよ」とこう言うのであります。
 お参りする度に新たな知識が頂ける、そのことよって新たな喜びが頂ける。そういう喜びをね、感じさせて頂く度合いが強うなって行くことが、合楽通いの楽しみでなければね、いけんことになるわけです。
 どうぞ一つ、ゆめ流血革命などといったようなことがね、本当は人間の世界に起こってよかろうはずがないです。尊い人間の命をです、その例えばことを完成させるためには、人を殺しても仕方がないというのですから恐ろしいことです。そうではない、いわゆる私が言う、和賀心時代を創るというのは、そういう意味なのですから。それを皆さん、やはり皆さん、和賀心、時に参画させてもらって、いわゆる一人一人が和賀心時代を創る運動
員にでもお取り立て頂けるくらいなおかげを、自分自身の心の中に頂いて頂きたいと思うですね。どうぞ